この地球上で生きていると情報がたくさんありますので知識を得ることは可能です。
特にインターネットの普及で欲しいもの、欲しくないものどちらの情報も意識的だろうが無意識的だろうが私たちの中に入ってきます。
その情報、知識というのは私たちの社会をするために使われることもあれば私たち自身を苦しめることにもなります。
知識は思考が創り出しているものですから都合のいいように作り出されます。
人間関係を気づく上でも知識が必要だったりと私たちの社会は知識を得ることでできていき、そして心がどんどん沈んでいく人も多いのではないでしょうか?
気を使わなければならない生き方をし、それをどうにか軽くするために人間関係についてあれこれ学ぶとか。
残念ですが私たちはどんどん知識を入れていき、そして心を軽くするつもりがずっしり重くなっていきます。
知識は増えるものだが気づきは得るほど軽くなる
さて、私がこのブログで書いていることは気づきについてです。
気づきとはもしあなたが思考がべったりの自分が自分だと思っていれば私が何言ってるか気づきにくいですが、一旦私と思考は別物だとただ気づくだけで今まで知識で築き上げてきた思考がどんなにずっしりしたもので、かつどんなに頑張ってもなんの解決もしないことに気づくでしょう。
私は今幸せではない、だから何かを学んで知識をつけることで幸せになる、というこの知識こそが思考が惑わしていることです。
この思考は知識はどんどんつくでしょうが実はあなたの本質に気づきにくすることです。
本当の私たちというのは名前もなく、肉体もなく、親から兄弟から近所のおばちゃんやおじちゃん、学校の先生から教えられた情報でもなく、その情報、外から得た知識全てを削ぎ落としてものが私たちです。
削ぎ落とすので気づきがあるとどんどん心が軽くなります。
どんな状況にいようともです。
逆に幸せになるためにあれやこれややっているときは心が重たいです。
何も分からずただ気づきを得ようと頑張ることや幸せになるには(幸せじゃないと思ってる自分を意図している)と頑張ることで心が重たくなるのです。
気づくことが始まりです。
私たちは思考ではない、知識や情報ではない、これに気づくことです。
私たちは思考ではないと気づくと、いろんな状況をこの世界で体験したとしてもただ淡々とそれをみるということになります。
果たしてそこにどんな苦しみがあるのでしょう。
どんな怒りがあるのでしょう。
どんな悲しみがあるのでしょう。
どんな恐れがあるのでしょう。
もちろん私たちは思考ではありませんが、思考が創り出すものを楽しむなと言っているわけではありません。
私たちは本当の私を知りながらキャラクターの私たちも楽しむためにここにいます。
何かに出会うたびに気づきを通してその世界を見るのか(思考を削ぎ落としたものが私であるとその度に気づく)、それとも私は幸せではない、だから幸せを求めるために今を生きていると思いながら世界を見るか。
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