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闇があるから光がわかるというワナ

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光と闇思考
光と闇
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私たちがいきているこの世界では二元性が存在しています。

それは

あなたと私

好きと嫌い

重いと軽い

プラスとマイナス

陰と陽

光と闇

など

 

 

私たちはどちらも重要とみています。

両方あるから片方のいい面を見つけることができるのだ、と。

 

 

闇があるから光がわかる。

辛いことがあるからこそありがたいことに出会った時そのありがたみを感じることができる。

苦しい努力を積み重ねることで成功が先に待っている。

これはいろんなストーリーを体験したい人間にとってはとても素晴らしいと思います。

しかし二元性の世界に浸っていると、次に来るのが「いいことがあったら悪いことも起こる」という観念です。

 

 

本当の私というものに気づいた私たちはそろそろこの二元性を取っ払って行く時がきているのではないでしょうか?

 

 

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「闇があるから光がわかる」というワナ

前提としてこの二元性を絶対的なものとして保持しているとこのワナから抜け出すことはできません。

この言葉はとても前向きに捉えることができるので気づきにくいです。

 

 

わざわざ分離をさせて幸福を感じようとしていることに気がつくでしょうか?

わざわざ闇と捉えなくても、闇にいなくても最初から光(ここでは幸せという風に捉えてます)にいることはできます。

 

 

最初からそこにいてもいいのです。

そこしかいる場所がないのだと知ればもはや「光や闇」という分離がなくなり、ただ平安、愛しかなくなります。

 

 

辛いことがあるからこそ何かいいことがあった時にありがたみを感じる、というのはただの思い込みです。そういうストーリーを作って楽しんでるだけです。

あなたは何かあった時にはありがたみを感じる、というような限定的な人を演じたいですか?

それならそれでも構いません。自分が不幸を演じることで幸せとは何かを見つけるという物語を演じるだけですから。

 

 

しかし本当の私はわざわざそんなことする必要はなく、すでに幸せである。この立場にいることは常に愛があるし感謝もあります。闇に立つ必要はありませんし、光を見つける必要もありません。

 

 

二元性ではなく一つであるという場所。

そこには光もありませんが闇もありません。

私がいる場所が全てであり、そしてそこから意図を作り出せばいいです。

純粋な意図を発する時って好き、いいな、楽しいなという場所から作り出すものしかありません。

そうすると、なくなったらどうしようだとか幸せの次は不幸が来る、などという二元性から解放されたサイクル(一元だからサイクルはないか)を生きることになります。

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