前回の記事では痛みや苦しみが起こったら自分のやりたいことと違う方にあるとガイドをしてくれているとお伝えしました。
確かにそうです。しかし他の見方もあるのであなたの痛みや苦しみがどちらの意味を表しているかがわかれば対処ができるのではないかと思い、今回はもう一つの意味をお伝えいたします。
痛みや苦しみははただ起こっている現象の一つ
痛みや苦しみが湧き上がるということは反映された世界の何かに対してジャッジをした時に起こります。
例えばですが、理不尽なことで責められた
自分は悪くないのに怒られた
など、こういうことってあると思います。
そんな時にどうしてそんなこと言われないといけないの!?許せない!!という感情も出てくるでしょう。
それは仕方がないことです。
感情とは思考に基づき勝手に湧き上がってくるものですから。
でも私たちの本質は思考や感情ではないので出てきた感情にいつまでも流され続けることは自分を見失うことになるので気づきが必要です。
そしてここからが本題ですが、その出来事に対して意味づけをしたがるのも思考の得意技です。
特に意識の変化が起こっている時だからこそ「私の意識は思考と分離し始めてて引き寄せもできてきているのになぜこんな嫌なことを創造してしまったのだろう・・・やっぱりうまくいかないのかな・・・」
という方向に行きかねません。
確かに意図を創造することができるのですが、世界の行動をいちいち創っているわけではありません。
どういうルートで幸せになるというのはキャラクターである私たちは関与できないところなのです。
理不尽なことが起こったとしてもただキャラクターである私がそのことに対して意味づけをおこなって出てきた痛みや苦しみなだけんですよね。
なのでただ起こっていることとして見れればそこには実は痛みや苦しみはもちろん原因さえ何も存在しないのです。
出来事に意味づけをするから痛みや苦しみが生まれるのです。
そこには実は何もありません。
ただ起こっているだけなのです。
最初は思考や感情により痛みや苦しみを感じるかもしれません。
でもそのあとに「これは何も意味もない、ただ起こっているだけなのだ」と思考や感情による幻想に飲み込まれずこの世界を見れるようになると心が静まります。
静寂な場所が本当の場所なのでそこに戻る感覚でしょうか^^
ガイドなのかそれともただ起こっているだけなのか
痛みや苦しみが出てきた場合、それがガイドなのかあるいはそもそもなんの意味もないただ起こっているだけのものに意味づけをしていただけなのか。
もし今何かに痛みや苦しみを持つことがあれば自分に問いかけてみてはいかがでしょうか^^
コメント
まさに書かれてあることが、今の私を示すものでした。
少し前に、この世界は愛で溢れているな。と気づきがあって、時折訪れる幸福感というか安堵感というか、ふわふわただそこに浮いて流れているだけの感覚が嬉しくて。身を任せているはずなのですが、現象の出来事やエゴの揺り戻し?で、度々慌てふためいてはガクンと落ち込みます。
ブログに書かれてあった『なぜこんな嫌なことを創造してしまったのだろう…』がその落ちるときのきっかけになっているような気がします。
こうして、あがっては落ち。をあまりにも自分自身が繰り返すので、もしかして、私は悲しいとか寂しいとか(よく「みじめ」も出てくるのですが)をしっかり感じ切れていないのかな?と思ってみたり。
それが、ガイドなのか、ただ起こっていることなのか。の判断が私にはわからないです。自分の出てくる感情に寄り添ってあげることと、ただ起こっていることとして、自分が在りたい安心感や幸福感をもう一度意図して、そこに戻ろうとすること。
この違いがまだわからないでいます。でも…こんなことを書いていることそのものがエゴなの?!?と突っ込む自分が今いたり。
ピノさんこんにちは!
ガイドなのか、ただ起こっていることなのか、指針となるのはピノさんがその出来事を通して意味づけを行った時に納得いくか、それともただ悲しみや怒りだけが残るかで見分けることをオススメします^^
ガイドなら起こった出来事を通してハッとなる気づきがあることが大半ですがただ起こっていることに痛みや苦しみを感じる場合は思考が何か(過去の情報、経験など)とその出来事に対して関連付けを行っているだけです。
最初はどちらも同じように痛みや苦しみを感じるかもしれませんがそのあとが大事です。
そもそも痛みや苦しみを感じさせているのはピノさんではなく「思考」です。
思考に飲まれた状態のままでは何か起こった時に痛みや苦しみを抱えたまま、さらには自分はなぜこんな目に合わなければならないのだろうと自分自身や周りを責めることになります。
起こったことをただ起こったことだと観る時そこに痛みや苦しみはありません。
そのあとピノさんか気づかないものすごい速さで思考が関連付けを始めます。
しかし思考が行っていることなのでそこには本当は何もありません。
起こったことと思考が思考を始めるその一瞬に気づく。
とても難しく感じるかもしれません。
しかしピノさん(本当の私)と思考は同一ではなので必ずその一瞬は存在します。
思考私ではないと知ることが大切です^^
私がオススメするのはダグラスハーディング「目を閉じた実験」を見てみるのがいいかもしれません。
youtubeで出てきますし私の最初らへんのブログ本当の私たちの正体は!?にも載せてあります。
何か気づきがあれば教えてください。
あるいは他にこういうことが知りたいなどあればお答えしますね!
mihoさん
わかりやすく、そして優しいお返事をありがとうございます。
何度も、何度も読んでみて、「目を閉じた実験」それに関連するところや、以前のブログなども、また読み返させていただいています。
どのブログも、とても心に響き、出逢えたこと、読めることを感謝しています。
私は、これまでずっと、頑張って、頑張って、本当に頑張って(笑)時には自分に鞭を打って生きてきました。その間も、潜在意識のことなどを読んだり、聞いたりしていましたが、上記にも書いたように、だんだんと自分で自分を抱きしめる感覚。やこの世は(もしかしたら)愛かもしれない。とか、ゆだねて流れてみよう。そんなことが思えるようになってきました。
そう感じた時の至福や安心感、充足感は絶大なものと感じています。
ですが、それを感じると同時に、どんどん疲れが出てきてしまい、何もやりたくない。になってしまいました。
恵まれた環境で、自由なので、今はその、「何もやりたくない」をしているのですが、これが本当に怖く、動きたいのに動けない。好きなことをしちゃえ!と肩の力を抜くのに、すぐ自分を責める自分が出てきます。
なんだか、長くなってしまいましたが…
それ故に、「気づく」時間も十分にあります。何かをしている時より、自分と向き合う時間が多い分、たくさんの自分に気付いてしまいます。
そのほとんどが、自分を責めるものなので、なかなか疲れます。
思考に気付いても、それを自分のものとしないで流すを、ただひたすら繰り返していく感覚なのでしょうか。
mihoさんがブログ内でおすすめされていた「それは在る」をまず読んでみようと思います。
ピノさんこんばんは!
目を閉じた実験はだんだん思考と本当の私との分離を感じられるようになります^^
なので何回か見ることをオススメします!
頑張ってきた人ほどその反動で自分への無力感を感じるのでしょうね。
しかし無力感を感じているのは誰なのでしょう?
ピノさんを責めているのは一体誰なのでしょう?
ピノさんでしょうか?いいえ違います。
思考が行なっていることです。
文字で説明るすと簡単ですが、これに気づくにはやはり、思考と私との分離をする必要があります。
そのためにも目を閉じた実験はその感覚に気づかせてくれるのです。
本当の私たちはですね、たった一つの意識であり100%安心安全平安の愛の中にいて、そして私たち自身が愛です。
その私たちが自分を責めることは絶対にありえません。
では誰がやっているかというと思考です。思考と感情です。(感情も私たち自身ではありません)
「それは在る」かなりオススメです^^
思考との分離の仕方を細かく教えてくれてます。
1回で気づきがあるかもしれませんし、最初読んだだけでは分かりずらいかもしれません。
なのでこの本もできれば何度も読み返してみてください。
何かピノさんを責める思考や感情が出てきたときはその一瞬に注意してください。
そして都度自身に訪ねてみてください。
これは私なのか?と。
本当の私と思考の一瞬に気づく。これを繰り返していくと「ただ思考で遊んでいただけだったんだ」とさらに気づくことになります^^
頑張らず、力まず、ピノさんのタイミングでが大切ですよ^^/
また何か知りたいことがあったら教えてくださいね!