こんにちは^^
実はパソコンが壊れてしまって修理に出したらデスクトップ上のデータが全部ぶっ飛んでました^^;/
お盆はさむから二週間くらいかかるといわれましたが一週間で修理できたみたいですぐ戻ってきました。
ブログが更新できず申し訳ございません(といっても二ヶ月くらいブログ休んでいた時もあるのでこれが普通ですかね・・・)
「正しい」は存在しない
なんとなく最近『「正しい」は存在しない』というような言葉を続けて耳にしたので記事にしようと思って書きます。
「正しさ」とは一体何なのでしょうか?
正義の反対は敵ではなくもう一つの正義という言葉を聞いたことがある方もいらっしゃるかと思います。
分かりやすく言うと戦争は誰が悪いということもなく起こったことです。
自分の国を守るために他国を「敵」とみた国がそれぞれをみて起こったことです。
自分の中の正義・正しさという定義があるため、それに反するものが間違い・敵となってしまいます。
つまり「正しさ」というのもまた概念であり思考が作り出した幻想です。
「正しい」は果たして「正しさ」を反映させることができるのか
正しいことをしようとするのはいいことのように見えて実は自分自身を苦しめることにもなります。
自分はこうしたい、でも世間的にはこれは馬鹿にされることかもしれない
自分は起業したい、でも周りは賛成してくれない・・・
みんな安定した職に就けという。
それが自分にとって幸せなんだからと。
他にも
タバコは体に悪い
肉を食べるのはよくない
これは一例ではありますが、こういう他人や世間が決めた正しさというものとの狭間で苦しんでいる人も少なくありません。
自分の想いが必ずしも世界が決めた「正しさ」とは違うかもしれません。
確かに例えばタバコに関してはガンのリスクがあると言われていますよね。
それは世間的に見れば正しいことです。
それを知っていても吸いたい人がいます。
吸うことでその人が満足しているのならその人の好きなようにさせてあげてもいいのです。
一つちゃんと見て欲しいところがあります。
一人一人が満たされた世界ではタバコを吸うことで周りが害をもらうことはあり得ません。
ニサルガダッタ・マハラジも覚者ですが、タバコを吸っていました。
自分は他人に影響をもらうことはないと知っていれば誰が何をしようと影響を受けることはありません。
正しい・正しくないを外の世界が作っていると知っていると何をしても自分にも他人にも悪い影響を与えることはありません。
なので自分にとっての正しさを他人に押し付けることをする必要もなくなります。
そのような人が増えれば増えるほど世間での正しさより自分が好きなことをする人が増えていきます。
自分が好きなことをするということを「自分勝手」のように捉えられては欲しくないのですが、自分が好きなことを"本当の私"から湧き上がったものであれば誰にも非難されるものであるはずがありません。
非難は存在しないところから出てきた行動からです。
他人が作り出した正しいを選択するより自分の「好き」を選択しよう
正しさというのはその時その時で変わっていくものです。
移り変わるものは幻想でありそれにしたがって生きていくというのはつまらないです。
この世界を創造している創造主であるなら幻想である「正しい」を選択するのではなくあなたから湧き上がる「好き」を形にしていってくださいね^^
コメント
mihoさん、こんばんは、オンラインサロン開設されたのですね、きょうみあります、が、フェイスブックは見ることのみであることと、ペイパルのシステムといったことが苦手で、足ぶみしています。けんとうしてみます。
くわしくお話しできたらうれしいです。近日に感じたこととして、この肉体にとっての「わたし」とは、ちがう、べつのなにかが有るなぁという強い感覚です。
昔からの仲間にはなしても、共感は得られないですが、ふしぎとみんな、はなしを聞いてくださるということがあり、ふしぎさを感じています。
そして感じることは、「ひとというものは生きているわけではない」のではないかということです。呼吸がとまっているのではなく、びょうぶに描かれたトラだという意味です、mihoさんはどのように感じられるでしょうか。
t.kさん、こんばんは!
コメントありがとうございます^^/
オンラインサロンはそれこそt.kさんから以前いただいたコメントで思いついたことなんです笑
入ろっかな?って思っていただいたらで全然大丈夫ですよ^^
(今はまだ参加者もお一人なのでもっと集まったらよりコミュニケーションが取れると思いますが笑
そうなれるように私も発信を頑張りますね^^)
肉体の私とは”私”ではない。
それに気付いたということですよね^^
この世界は小説の中や映画の中のような感じです。
その中ではそのキャラクターでしか生きられない。
その作品のストーリーに沿って生きているだけです。
しかし、その作品を作ったものがいる、そちらが”私”です。
“私”はその小説が気に入らなければ作り直すことができる、映画もこの映画は飽きたなと思えば
別な作品をみる。作る。
こちらが本当の”私”です。
引き寄せに寄って話をすればこのような感じですね。
それよりももっとシンプルなところの話であれば
「在る」であり、私とはたった一つの意識・静寂という言葉がしっくりくるかなぁというところです^^
“私”とは何かを「する」ものではない、何者でも無い、ただ「在る」。
だからこそ、この動くもの移りゆくもの(もちろん思考、感情、思念、想念、観念なども)は私ではない。
言葉って制限をかけるので難しいですよね^^;
こんな感じでございます^^
こういう話をできるのがとても楽しいです笑