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私と私以外の間に境目は存在しない

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境目はない私たちとは
境目はない
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以前このようなブログを書きました。

 

虹は何色でできている?私と世界が分離する理由
名前をつけるということはそこに執着を生むことになります。それは一瞬ただ起こっただけのことなのですが、私たちは時間の概念が強ければ強いほどそれが続いていると思い込みます。そしてそれは良い悪いという判断になり、私と外の世界との分離が大きくなるのです。執着すればその世界は続きます。

名前をつけることで区別することができるようになり、いつしか「それ」と「それじゃないもの」というふうに分かれてしまいました。

 

それは「私」と「私以外」も同じです。

 

しかしどうでしょう?

本当にそうなのでしょうか?

 

虹の話をした時と同じように7色それぞれの間には無限の違う色が混ざっています。

それを分けることは不可能です。

 

今度は立体的に、目の前に人がいると仮定して話してみましょう。

 

あなたの目の前に人が立っているとして、その向こう側に山があるとします。

それを見てあなたは山を背景に人が立っている、と言うでしょう。

しかしそれは3次元でものを見ているからです。

 

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私と世界に境目がなくなる実験

私がいつも紹介をしているダグラスハーディングの動画の中から一つ紹介させていただきます。

 

頭がない男

 

定規を持っています。定規では距離や長さを測りますが、こうしたらどうでしょう。

 

頭がない男

 

私と私が見ている世界には距離がありますか?

え?見えない?

もうちょっと頭を柔らかく、そのままを見てください。

 

もっというとあなたはあなたを見たことはありますか?

もちろん鏡を見ればあなたを見ることはできるでしょう。

でもそれさえもあなたとは違うところに顔が映っているだけです。

あなたの目の前にあなたと思っているものが映っているとしたなら目の前に広がる景色はあなた自身だということになります。

 

美しい景色もあなたなのです。

 

何を言っているのか分からないと思います。

それはあなたがあなただと思っているあなたと一体化しているからです。

 

定規の件に戻りますが先程の写真の中に誰かが映っていたとして、景色が映っているとして、それをそのまま見たらいろんな色が並んでいる、というだけなのです。

 

区別しているのは優秀な思考が立体とはこういうものだ、分離しているのだ、と認識させています。

さすがですね。

 

今回の話は私の伝え方がど下手くそで難しかったかもしれません笑

理解しようとせず、写真をただありのままにぼーっと見てみてください。

 

世界は境界線など存在しない、境界線や区切りやがあるように見えているだけということをお伝えしようと思いました。

 

私の体も景色の一部

 

境目はない

 

もう少し頭を爆発させることを書いてしまうことをお許しください笑

 

この景色に映る手、これが自分の手だと思っているのも実は違います。

ただ映し出している景色の一部です。

 

見える世界は全て私

鏡に映る私をみて私だと思い込んでいますがそうではありません。

景色の一部である。

本当の私には顔は存在しません。

 

顔は存在しませんが私がみている世界は同時に私であります。

 

私がみている世界は私ということは目の前にいる誰かも私であり自然も私です。

私とは無限に広がる空間であり、それは同時に満ちている世界でもあります。

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