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癒しや自愛をできる誰かはいない【衝撃的かも?】

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癒しと自愛ノンデュアリティ
癒しと自愛
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私というキャラクターは常に探求をして生きていると言っても過言ではないですよね。

 

でもそれも間違いということはないし、私というキャラクター自体がそれをすることで生存しています。

 

 

忙しい私たちの耳に心地いい言葉として、

「自分を癒してあげましょう」

「ご自愛をしましょう」

「リラックスしましょう」

と意識してやっている人もいるのではないでしょうか?

 

でもここで衝撃のことをお伝えすると

それをできる私はいない

ということです。

 

スピリチュアルのゲートってノンデュアリティと真逆で二元的

 

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癒しや自愛をできる誰かはいない

 

癒しや自愛、リラックスをしようとすると逆に色々考え込んでしまいませんか?

 

リラックスするにはあったかいお茶を淹れよう

とか

瞑想しよう!そのために部屋の空気を整えて・・・

とか

それって何のための癒しや自愛やリラックスなんでしょう?

 

その状態を思考してる時点で全然なにも癒されてない。

というかそれってもしかしたら、世間的に定義されている癒しや自愛やリラックスの「方法」になっているかもしれません。

 

それを思考してやっている時点で私は癒やされることはないでしょう・・・

 

さらにいうとそれをできる誰かはいないのです。

 

 

それも思いが起こっているならそれも問題はない

 

衝撃的なことに癒しや自愛を求める誰かはいないのですが、それが起こるならそれも問題ではありません。

癒しや自愛をやったり求めることにいいも悪いもありません。

(ストーリー的にはいいことのように思いがちですが)

 

 

「ここ」と個人的に起こる癒し

 

非二元と呼ばれる「ここ」(ここも別のどこかということでもないですが)自体が

愛そのもの、平安、静か、ただ在る、そこには癒やされなければならない何かもなく、

そしてここ自体が癒しでありそして何でもないもの。

 

それと個人的に起こる癒し、自愛などは前提として何か不足している、今に不安・不満があって

別の何かに変化を求めている私がいるような気がします。

 

究極的にはそれもただ起こっているので何か修正する必要もないのですが、

その不足感を感じているのは誰なのでしょうか?

 

 

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