言葉として、「人として成長するには赦せる人になろう」などと言ったりすることがあるかと思います。
それは一般的な言葉としての解釈は相手が(私に)行った罪を赦してあげる、という意味です。
しかし、きっとエゴまみれの人間からしたら全てのことを赦せるようになるにはかなりの根気がいりますし、もしかしたらどんなに頑張っても赦すことができないものを必ず一つや二つ、いや、それ以上持っていると思います。
そもそも自分は傷つけられた、プライドをズタズタにされた、大事なものを奪われたのだからそれを赦すなどは絶対にできない!という方もおられるかもしれません。
今回はこの「赦す」について話をします^^
赦すの意味
赦すべきものとは果たしてなんでしょうか?
誰かが誰かに対して行った罪を赦す。
これは赦す側と赦される側が存在します。
この言葉は使いたくありませんが、赦す側が上に立ち赦される側が下になる。被害者と加害者。この関係図が生まれます。
私たちはどの立場でこの二極性を創り出すのでしょうか。
赦す側が何かしらの観念を持ち、赦される側がその観念を無視する行いをし、罰しなければならないがそれを赦す・罰せられるべき者は赦される、というものができます。
私たちがこの世界で作り上げた思考、概念、観念、ルールから外れたものがいるならそれを罰しなければならない、しかし私は魂の成長のためになるなら罰するべき行いをした者を赦さなければならない、となっているわけです。
全て己の観念が作り上げた幻想をもとに行っています。
それに気づきもせず、例えばですが、自分をいじめてきた人を私は赦しますなどと言うとします。
思考や観念が作り出した物に対して私は誰かを赦すと思っていること自体、観念に囚われていたのだと気づいた方がいいのではないかなと思います。
本来私たちは誰にも傷つけられた存在ではないし、否定される存在でもありません。
傷つけられた・否定されたと思っているのは自分自身がそう決めているだけです。
自作自演の出来事に誰かを赦す・赦さないということは起こるはずありません。
赦すべきものというものはありません。
価値判断することにより自分にとっての善悪が発生します。
価値判断することがなければただ「在る」だけです。
赦すとは手放すという意味も含まれています。
手放すとは本来の私には必要でない概念・観念・ルールなどが在ることに気づくことです。
これらを手放すことができれば私たちは一体何を赦せばいいのでしょうか?
そもそも赦すべきものとはなかったのです。
コメント
何となく言わんとしている事は理解出来てきました。
私が、
彼に嫌がらせをされてる
彼は私を孤立させてる
彼は私を排除する
と
勝手に妄想して大きくなり
その妄想を、そうだと思い
受け入れていたので
この数年、その通りの現実になっています。
自作自演です。
なので仕組みは理解できました
体感もしています。
後はこの感情と思考の扱い方ですね。
復縁を望んでるのに
まだまだ
彼を憎い気持ち=謝罪を求める気持ち
の消化が出来ていません
最近は出来なくてもいっか~
って開き直ってきました 笑
この世界に見えるものは全て幻想なので自分でどんな風にでもクリエイトできるんです。
しかし”アバター”であるまーちゃんさんという人間にはそれがどのようにクリエイトされるかは分かりません。
どのように叶うのかというルートが分かりません。
しかしクリエイトしているから叶うのは確実です。
思考や感情はそれが分からないので現状をみて「叶ってない」と判断します。
「〜すれば叶う」「〜じゃないから叶わない」などのルートを勝手に作りたがります。
そのルート通りに事が進まないと「やっぱり叶わない」と勝手に判断します。
その判断を鵜呑みにしないでください^^
もう一度いいますが、私たちアバター視点では「どのように叶うか」というルートを決めることはできません。
ここ大事です。
ここを思考が考えていないか観るのも大事です^^