よく、愛の対義語は憎しみではなく無関心である、とマザーテレサが言ったとか言わないとかありますが、あなたは愛の対義語はなんだと思いますか?
好きの反対は嫌い
重いの反対は軽い
高いの反対は低い
これらはある地点で物事を観たときに起る二元性です。
ですからある地点にいなければ好きも嫌いも重いも軽いも高いも低いもないのですが人はその地点にいるだけでそこが基準だと決めつけることもあるので厄介です笑
ちょっと話はそれてしまいましたが、では愛の反対は本当に無関心なのでしょうか?
確かにこれはある意味当たっています。
人間の心(感情)が持つ愛とは何か特別なものであり、それは特別な人に捧げられる素晴らしいモノのように思えます。
だからこそその反対は無関心なのです。
愛がないならあることができないので関心を持つことができない、ということですね。
ですが、本当の私から観たらその愛というのは単なるエゴの一つに過ぎません。
エゴなので愛とは違います。
では愛の対義語とはなんなのでしょうか?
私たちは本来は一つの意識であります。
そこは思考が作り出す概念や想念や感情というものはありません。
思考が作り出すことのできないものが本当の私たちです。
愛とは思考から生まれたものではありません。
私たち自身が完全完璧であり、豊かさであり、平安であり、そして愛です。
私たちは最初から愛の中におり、そして私たち自身が愛なのです。
一つしかないものに対して、
そして全に対して反対のものは存在しません。
人間の言う無関心さえ愛の中にあります。
憎しみさえ愛であり、思考さえ愛であり、概念さえ愛であり、想念さえ愛であり、感情さえ愛であります。
本来は私たちが作り出すものは愛でしかありません。
それをわざわざ思考が解釈を作ることにより様々な対極のものを作りキャラクターを生きづらくしてしまいます。
愛の対義語は存在しません。
愛は愛でしかないのです。
キャラクターである私たちは愛というものを限られたものとして観てしまうようです。
そのため誰かを好きになったり、反対にこの人は性格が合わないから嫌いだなどと判断してしまいます。
人だけではなく、今いる環境の好き嫌いもそうですよ。
愛は好きとか嫌いさえも包括しているものですし、またそれ自身があなたでもあります。
そんな愛でしかないあなたが何かに対して苦しむことがあるならそれを手放してください。
本来誰もあなたを苦しませることはできませんし、何もあなたを苦しませることはできません。
苦しませているのはあなたが愛を観ず思考や感情をフォーカスしているからです。
ですがそれすら愛の中で起こっていることです。
あなたの本当の存在を認めればそこには愛だけしかありません。
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