以前全てに意味はないという記事を書きましたが、こう書くと
今回はこれについて「ここ」からの見え方についてお話をしようと思います。
以前全てに意味はないという記事を書きましたが、こう書くと
今回はこれについて「ここ」からの見え方についてお話をしようと思います。
私も非二元(ノンデュアリティ)を意識的に調べたりしたときはこのような気持ちになりました。
これもストーリー上の私が言っていることではあります。
ではこのストーリー上で悲しがっているのは本当に私なのでしょうか?
悲しい、不安だと言っているのは誰でしょうか?
これらは思考から感情へと流れているものになるので、私とは全く関係がありません。
悲しい、不安、または恐れなどが出てくるかもしれませんが、
「ここ」には存在できない思考が悲しんだり不安がったり恐れているのです。
意味を持たせることで存在価値を見出していた思考や感情の行き場がなくなるのではないかと騒いでいるのです。
ですが「ここ」は思考や感情があろうがなかろうが常に「ここ」に在るのです。
それは現れたり消えたり変化できるものではありません。
しかし変化することしか知らない思考や感情は「ここ」のことがわかりません。
でもそれでもいいのです。
消すことはできないし消す必要のない思考たちなのです。
ストーリー上で見る世界はただ起こっているだけです。
それに意味づけをして楽しんでいると思っているのが今までの私たちです。
ですがその意味づけも結局は思考が行っています。
そうすると
「なりたい私という理想像があるけどそれは叶わないってことですよね!?」
と返答がきそうですがそれも違います。
なぜならそれも思考がこねくり回して考えた判断だからです。
叶う叶わないもない、ただ起こっているだけ。
なれるかもしれないしなれないかもしれない。
でもそこにいい悪いの判断をすることで落胆するのです。
叶う叶わないもない、なれるなれないも分からない。
それでもそれが完璧な流れなのです。
「ここ」ではストーリー上で起こる因果関係は全く関係なく
ただただ平安と愛と静寂であるのです。
そして重大なことをお伝えすると、今例えばあなたが
このような全てに意味はないのだとしたらそれって悲しいことだ。
でもそれも思考が行っているだけなんだな。
という流れがあったとしたならそれさえもただ起こっているだけなのです。
あなたは何も思考していないし感情を動かしているわけでもない。
なので何を思っても何をしても、それはあなたがしているのではなくそれさえも自動的に起こっているのです。
コメント