今日はとんでもな爆弾発言になるかもしれません。
でもここにくる人はなんとなく気づいていると思います。
タイトルの「集合意識に」ついて。
スピってる人がいう「集合意識」って?
みんなで同じことを思えば集合意識によって世界は変えられるよ!
とたまに話している人の会話に混ざることがあります。
この一つの世界の中に一人一人の人がいて・・・というのが前提となります。
いや、それが当たり前だと思っていることの方がむしろ普通です。
まさかこの文字を打っている私しか存在せず、もっというとこの私さえもただの物語のアバターであり登場人物にしかすぎない、と思うことの方が頭がイカれていると思うのが一般的です。
でも仮に集合意識でみんなの意識を繋げるよりももっと簡単な方法があります。
ただ私が意図する、だけ。
集合意識と意図するの違い
集合意識と意図するの違いですが簡単にいうと大勢と私一人、ですね。
この世界は元々は「意識」という何もない本当の“私”が体験するために物語を通して今ここにいる。
ということはどんな設定も可能なのです。
どんな私になりたいですか?
どんな私でありたいですか?
周りの環境は?
どんな世界にいる私を演じますか?
全て私を通してしか世界を歩けません。し、世界を見ることができません。
そうすると、集合意識というものは「あってもいいしなくてもいい」ものとなります。
もちろんあってもいいのです。
ルールも制限もないのです。
でも基本的には「私がそれを造っている」ということです。
「集合意識というものがこの世界あるという設定で生きている私」
という設定をしている、ということです。
そういう設定も面白いですよね!
そういうのものあっていもいいのですがそもそも私がこの世界の仕組みを創っているからどうにでもなるのです^^
例としてもし世界平和を願うならみんなで願おう!じゃなくて意図する。
今まで自分で作り上げてきた世界が平和じゃないと思うものを取り除いていく。
それはテレビを観るのを止める、でもいいし
自然に触れる時間を作るでもやれることはたくさんあります。
でもそれ自体もルートを限定していることにはなるので本当に自分のやりたいようにやるのが一番です。
私がどんな世界を観たいかが全てです。
集合意識というものをみんなで(私が創ったアバター、登場人物)使って何かの変化を起こす
というのもアリだし
ただ意図してそっちに意識をフォーカスしておく
というのもアリ^^
全ては意図した瞬間からその世界になっているので何も考える必要はありません♪
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