今回はかなりデリケートな話かもしれませんので見る方によっては気分を害される可能性があります^^;
東京に遊びに行きました。
そこで行きたかったところがあったのです。
中野区にある哲学堂公園にある「哲学の庭」です。
哲学堂公園には世界の哲学者を奉祀している場所なのですが、その場所に哲学の庭という場所があります。
この銅像はハンガリー人の彫刻家ワグナー・ナンドール氏の作品です。
(日本に帰化されたので日本人です)
釈迦
キリスト
老子
アブラハム
エクナトン
全部で11体の銅像があり庭の一番手前にある5体は釈迦・キリスト・老子・エクナトン・アブラハムでみんなで輪をつくっています。
それぞれ現在の宗教や思想の祖となる方々の像です。
続いてその奥にある銅像が聖徳太子・ユスティニアヌス・ハムラビですが、こと方々はその時代に法をつくった方々です。
3枚目の写真にある3体の像はガンジー、達磨大師、聖フランシスという人々を平和へ導くための運動を行った方々です。
正直私はあまり宗教のことや歴史のことは詳しくないのですが、これらの像を作ったワグナー・ナンドール氏の想いの方が今回私の伝えたいことです。
宗教や宗教に基づいた運動というのは形としてはそれぞれ違うように見えますが、元は一つであるのことを伝えているものなのではないかということです。
宗教の始まりとは誰かが私の言うことを聞きなさいと言ったわけでもなく、何か不思議なこと(のように見える現象)を起こす者たちの言葉を崇める人々が広めたことによりできたものですよね。
それが何千年も語り継がれ世界の政治をも支配するまで大きくなった宗教ですが、本当は人々を争わせるために作られたものではないはずなのです。
宗教の元となった釈迦やキリスト、老子・エクナトン・アブラハム、達磨大師などはそれぞれ自分たちを崇めるために言葉を残したのではなく、一人一人が世界を持っておりそれを実現することができるのだと説いていたのではないかと私は感じているのです。
しかしそれを深い思考の中で生きている人々はその言葉の本質を理解することができず今日の宗教が出来上がったのだと思います。
今日の宗教に対してなんの違和感を感じないのであればそれは「私」とその他を分離した思考でしか全てを判断することができません。
もちろんそれでもいいのです。
いままで通りその世界を選択し続けることも可能なのですから。
しかし私は、もうそのようなことで分離を行いそれが当然であるという感覚のままでいることの方が難しくなっていくと思っています。
これはすぐにではなくともいずれ宗教という概念がなくなる日がくるということです。
今はこの話を聞いて反発をする者や怒りを覚える人も中にはいるのかもしれません。
しかしそれは何も形を持たない、その人の中にある観念・思考が騒いでいるにすぎません。
神とは
神とは他の誰でもなくあなた自身であります。あなたが神でありあなたがあなた自身を作り出しているのです。
本来はそういうことを宗教では伝えているのではないでしょうか?
宗教の教えとは全ては一つであり、全てに身を任せること。
もしかしたらめちゃくちゃシンプルなことを伝えているのではないでしょうか?
私は宗教を信じているものを批判しているのではないのですが、宗教を歪曲している人々がいるのも確かです。
それは分離を加速し幸せは今ここにはないと信じているものです。
幸せはここにはないと意図しているものにはここにある幸せに気づきません。
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